無駄こそ人生

私の学生時代の趣味はジャズ、現在の職業は料理、この二つの要素をさりげなく、時には中心的な題材として小説に取り入れる作家と言えば、・・・そう村上春樹である。


「ハルキスト」ということほどではないが、「ノルウェイの森」がベストセラーになった頃から(中学生くらいの頃だったと思う)わりとよく読んできた。


そして私は最近、ブログの更新を怠りながら、新作「騎士団長殺し」を読んでいる(現時点で第一部読了)。この小説でも料理をする場面や会食に供される料理の描写、音楽に一家言ある人物が登場するなど、作家の料理観・音楽観を垣間見せる文章の数々に出会うことができる。

(しかし音楽に関して言えば、最近はジャズよりクラシックばかりがフィーチャーされていて少々残念なのだが。ちなみに村上小説に登場した音楽のCDは物凄く売れるらしい。ステマというやつではないのであろうが)


唐突だがこの「騎士団長殺し」から、主人公「私」がもう一人の主要人物「免色」氏と会話する場面での、「免色」氏のやや演説ぶった科白を少し引用する。


「・・・一見無駄に見えるその高性能の大脳皮質がなければ、我々が抽象的思考をすることもなかったでしょうし、形而上的な領域に足を踏み入れることもなかったでしょう。・・・」

「抽象的思考、形而上的論考何てものができなくても、人類は二本足で立って棍棒を効果的に使うだけで、この地球上での生存レースにじゅうぶん勝利を収められたはずです。・・・しかし私たちには複雑な仮説を積み重ねることができます。コズモスとミクロ・コズモスとを比較対照し、ファン・ゴッホやモーツァルトを鑑賞することができます。・・・」


この科白を受けて主人公が「つまりイデアを自律的なものとして取り扱えるかどうかということですね?」とたずね、免色氏は「そのとおりです」と返す。


ここで言う「イデア」とは「もうひとつの現実」といったところだろう。

「地球上での生存レース」を生き抜いていかなければならない”現実”がある一方で、「抽象的思考」「形而上的論考」や「ファン・ゴッホやモーツァルトを鑑賞」する”もうひとつの現実”がある。

そしてその”もうひとつの現実”をつかさどるのは、一見”無駄”な「高性能の大脳皮質」であるということ。


よく「いろいろな読み方ができる」といわれる村上小説だが、個人的に引っ掛かったのがこの場面。


一見無駄で、オーバークオリティーの大脳皮質、そこに秘められた能力こそが「人間」を特徴付けていると私は解釈した。

生態系の頂点として、あるいは生態系自体をコントロールする存在として(道具を使えるということで圧倒的優位を獲得できる)過不足なく生きるだけではあき足らず、”無駄な”能力を獲得し、それを発揮してきたことこそが人間の歴史。


”無駄”無駄”と書いてきたが、この無駄こそが多くの物事を特徴づける大事な要素であるというのは、我々の理性よりも直感が捉えているところの真実。


日本の公道では全くもって無駄な馬力を有することこそがフェラーリやポルシェに対する憧れを喚起するのだし、「無駄だ」といわれてきた研究がノーベル賞につながることもある。

もっと身近な無駄について言えば、ある人は昼食を350円の牛丼で済ませるが、夜になると一杯1000円の日本酒をのみ、カラオケスナックで女の子にご馳走したりもする。無駄遣いするために必要を切り詰める生活。(夜に使った金額だけで牛丼をいったい何杯食べられるのか、なんていう計算をしたことがある人は少なくないはず)


そう、人間は必要だけでは生きられない、もっと言えば無駄こそが人間だ。


私が読書家であると同時に、あまり高尚な読み手でないことをヒレキした今回のブログであった。